名レースといえばこれだ!競輪の歴史上欠かせない決戦を厳選紹介

競輪の歴史に残る名レースとして、中野浩一が優勝した第1回KEIRINグランプリ、東西の横綱が激突した95年KEIRINグランプリ、93年オールスターで選手や競輪場スタッフなど多くの関係者が涙した神山雄一郎の重賞初勝利などを紹介しています。

歴史に残る名レース

競輪の歴史に残る名レースが生まれる競輪場

競輪には歴史に残る名レースが多数存在しています。
競輪ファンの中では超定番のものからコアなファンの間で話題になる名レースを幅広く紹介します。

 

1985年第1回KEIRINグランプリ

年末の風物詩にもなっていて、重賞の中でも別格の存在として扱われているKEIRINグランプリは1985年に初開催されました。
その年の獲得賞金上位9名が一発勝負で年末に激突する頂上決戦のコンセプトから、立川競輪場には異例の3万9,000人の観衆が集まります。
当時の優勝賞金は約1,000万円で現在の10分の1の水準ですが、それでも当時の競輪では異例の高額賞金が用意されていました。

賞金ランキング1位で注目を集めていたのは、世界選手権V10を誇る「ミスター競輪」と呼ばれていた中野浩一選手です。
レースはフラワーラインと呼ばれる東京の3選手が先制し、中野も3名から構成された九州ラインを組んで先行するフラワーラインに仕掛けますが、一度捌かれてしまいます。
ここぞの場面で仕掛けた勝負が不発に終わったことで、フラワーラインの勝利が濃厚だと多くの方が思ったことでしょう。

それでも、4番手を走っていた同じ九州ラインの選手が中野を迎え入れて再びフラワーラインに対抗するべく体勢を立て直します。
そして最終ラインのバックストレッチで世界の脚と称される瞬発力を爆発させて一気に捲りにかかると、フラワーラインを異次元のスプリント力でかわします。
最後の直線でも同じ九州ラインの選手を振り切って、栄えある第1回KEIRINグランプリの優勝者になります。

見応えがあるレースを見せたことで、レース後には中野浩一選手に向けて大歓声が送られます。
負けた選手へのヤジが多い競輪では、ここまで大観衆が総じて歓声をあげることは珍しく、歴史に残る名レースとして現代も語り継がれています。
KEIRINグランプリがその後獲得賞金を増やして現在の地位を手に入れたのは、第1回大会の盛況ぶりが大きく貢献しています。

1995年KEIRINグランプリの頂上決戦

90年代の競輪でトップ選手に君臨していたのが、栃木支部で東の横綱と呼ばれていた神山雄一郎選手と、福岡支部で西の横綱と呼ばれていた吉岡稔真選手です。
年末のKEIRINグランプリで東西の横綱が対決するとあって、立川競輪場は超満員の4万人が集まりました。
ともに歴史に残るレジェンド選手で、当時はまさに全盛期です。

しかし、レースは9番車の神山が最終ホームでスパートをかけて逃げの体制になります。
吉岡は立ち遅れたことで8番手の位置にいましたが、怒濤のまくりで最後の直線で追いつきます。
最後は東西の横綱同士による力勝負。吉岡は道中で若干の不利があったものの、最後は逃げ粘る神山をゴール前で捉えて見事な勝利を挙げます。
注目選手2人が実力を出し切ったレースは見応えがあり、その年の頂上決戦になるKEIRINグランプリの中でも、1番の名レースだと称されています。

多くの方が泣いた神山の初タイトル

神山雄一郎は特別競輪16勝を誇る伝説の選手です。
87年4月に競輪学校に入学すると、121戦110勝の首席で卒業し、最後の卒業レースも完全Vを成し遂げました。
翌年にはスーパーエリートとしてデビューを果たすものの、92年・93年のダービーおよび93年の全日本選手権では後輩に負けて初タイトルが遠い状況が続いていました。

93年に地元の宇都宮で開催されたオールスターでは、優勝候補の高木を筆頭にした4人の神奈川ラインを力で捻じ伏せて初タイトルを手にします。
神山はゴールラインを駆け抜けた瞬間に号泣。神山の苦労を知っていた師匠や同期など身近な選手とファンはもちろん、競輪場の職員まで涙を流す感動的なレースでした。
そこから神山伝説が始まり、初タイトルが遠かったのが嘘のような躍進で歴代1位の特別競輪16勝を達成します。