本格復活の兆しあり!競輪の近年の動向と長い歴史・トラブルへの課題とは

公営競技として一時代を築いた全盛期から、1970年代から30年以上続いた低迷期、そして復活を遂げた現代までの競輪の歴史を分かりやすくまとめました。2000年代に入ってからも暴動による事件が発生するなど客層の悪い面がある一方で、ここ数年はネット投票によって売上を伸ばしています。

競輪歴史

競輪の歴史をしめす時計

競輪が公営ギャンブルとして始まったのは1948年11月です。自転車競技の歴史では、国内でもっとも古い記録が1895年に残っています。自転車競技は戦前から日本各地で人気を集めていて、終戦後の復興と財源確保を目的に、競馬に倣って賭けの対象になりました。
公営競技の中では競馬に次いで2番目に古い歴史を持ち、一時期は競馬も凌ぐ人気を確保していました。

競輪の全盛期と相次いだ暴動

1948年に公営競技としての競輪が始まると、予想以上の売上を記録して全国に広がっていきます。
当時は公営競馬(現JRA)の控除率が34.5%だったのに対して、競輪は25.0%で対応したため競馬よりも稼ぎやすいことで話題になります。
また、後発組の公営ギャンブルになる競艇・オートレースよりも手軽に競技場を作れる特性もあって全国で競輪場の建築ラッシュが起こり、1948年に競輪が始まってから2年間で50以上の競輪場が作られます。

当時は衰退する競馬に対して競輪は爆発的な人気を誇りましたが、全国の競輪を管理する運営母体がなかったことやローカルルールが存在したことで、観客からは分かりにくいという意見も多く聞かれました。
自転車競技に興味がなかった中で競輪をギャンブルとして始めた人は、先頭が空気抵抗を受けて不利になることが理解されず、逃げ切れない選手に対して不満を爆発させる観客が現れるなどして全国の競輪場では暴動が相次ぎます。

1950年には競輪を批判する新聞も増えて、国会では競輪廃止論が議論されたほどで、1970年頃までは大規模な暴動事件が繰り返されました。

近年にも起こっている競輪トラブル

競輪はスポーツ性が高い一方で、全てが選手の力量で勝敗の決まる特性から、観客のヤジが多いことを問題視されています。
競輪場はローカル感の強い雰囲気で初心者が軽い気持ちで行きにくい環境です。
2000年2月11日立川競輪場で開催されたアシアナカップ決勝では、係員が残り周回を間違えて誤打鐘をした事に対し、ファンが立て篭もる事件が発生しました。

現代においても、観客のヤジをアップした動画が話題になるなど、未だにダークなイメージが残り、他の公営競技に比べて客層が悪いのも事実です。
近年はネット投票の普及によって若者や女性など新たな客層を獲得して売上を伸ばしています。(2018年まで5年連続成長)

長い低迷期と復活

競輪は公営競技として運営されて以降、しばらくは1番の人気を集めていました。
1965年には競艇など他の公営競技に比べて2倍以上の売上を誇っていましたが、その後は後楽園競輪場の廃止などネガティブなニュースが続き、人気が衰退していきます。
2000年代に入っても競輪の低迷期は続き。2019年に入ってからも小田原競輪場の存続を巡る議論が度々ニュースになっています。

競輪の衰退に歯止めをかける転機になったのが2007年にオートレースと運営していたJKAとの統合です。
打開策としては2011年から小倉競輪場で試験的に導入されて、その後はミッドナイト競輪として全国に広まっていきました。
2012年からはモーニング競輪が始まり、開催時間を前後に増やすことで新たな客層を取り込むことに成功し、売上を伸ばす競輪場が増えていきます。
2012年には約50年ぶりに復活した女性選手による競輪(ガールズケイリン)を導入するなど、今現在も競輪は試行錯誤をしながら進化を続けています。

現在はローカル開催でも全国からネット投票ができるようになり、他の公営ギャンブルのユーザーが競輪に挑戦する事例が増えています。
競輪場への来場客が伸び悩むエリアもあり課題は残りますが、全体の売上は増加傾向を続けていき、近い将来には数十年ぶりの競輪ブームが訪れるかもしれません。